設計以前。追究日記

建築学び、不動産でいろいろやっているブログです

コンテクストのラスタライズ

先日、とある内覧会にお邪魔しました。

建築家、森元気さん設計の住宅を、見せていただいたのです。

bunka.aij.or.jp

 

「こんな所に住みたいな〜」

というユーザー目線のわくわくがあったのは勿論のこと、

デザインとコンテクストの関係について、少し思うことがありました。

森さんの意図とはまったく外れてしまっているかもしれませんけれど…。

 

 そんなわけで今回は森さんの設計した空間から連想した

「コンテクスト」という言葉を軸とし、まとめてみました!

とっても偏った見方になっております。お気をつけください(?)

 

設計課題の時よく、

「コンテクストを読め」

なんて言われたな…。うーん。

 

コンテクストの解像度を上げている?

お見せ頂き、まず思ったのは、土地のコンテクストを素材?にしているのだなぁ、ということ。(上のリンク先でも森さん自身、「ローカルなサンプリング」という言葉選びをされていますね。)

下の写真を見ていただきたいんですが、階段や擁壁は、もともと造成された既存のものだそうです。

そうした「微細でローカルな」状態が、「サンプリング」され、室内まで連続しています。

 

素材こそ変化するものの、「既存の造成」というコンテクストが、室内でも連続していく。

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道路側に面する大きな窓。「道路との高低差」というコンテクストを逆手にとった表現?

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森さん自身は、「ローカルなサンプリング」という言葉を用いられています。

あえて無理やりにコンテクストという言葉に寄せていくと、

コンテクストを「読み込んだ」設計であると同時に「高解像度で体験させる」設計になっていると感じました。

 

階段も、道路に面する大開口も、

既存の土地のコンテクストを読み込んだ結果のものであると同時に、そのコンテクストが持つ意味を引き出しているように思うのです。

どちらも、コンテクストから導かれたというだけでなく、コンテクストを最大限に体験するための仕掛けとして機能しています。

 

 

コンテクストをずらしている?

下の写真は、2階の一室の開口をとった写真です。

窓の向こう側に窓があり、その向こう側にまた別の部屋が見えます。

空間が重なり合う面白さもありますが、

ここでは「素材」というコンテクストのとり扱いが面白いと感じました。

 

塗装された壁。構造用合板の壁。「構造用合板という素材」の表現。

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この住宅の、むき出しの構造用合板は「仕上げのされていない構造用合板」ではなく「構造用合板という素材」のように見えます。

仕上げが施された面がある中に、むき出しのモノがあることによって、それが「素材」として認識される、のかもしれません。

 

空間構成の純度を上げるのとはまた異なる、不思議な抽象性が生まれているように思えるのです。

「素材」というコンテクストがずらされている、と言えるかもしれません。

 

構造用合板という素材。カーテンレールという素材。すこし遠くに、コンセントという素材も。かわいい。

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「素材というコンテクストがずらされている」ことにより、本来は仕上げが必要とされるであろう状態でも、むしろ「このままがいい」ということに。…なっている、と自分は感じました!

 

仕上げられた天井=抽象。それにより、塗り残された「材料」は「素材」に変貌?

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こうした「ずらし」は、とても面白いな、と感じました。

そして、とても自由だな、と感じます。

やらなくてはいけない、はずの仕上げがないことが新しい意味を獲得している。このことは、デザインすることの力・意味の一端じゃないでしょうか?

「こうでなければ」という息苦しさを乗り越えるために、デザインによるコンテクストの操作は「効く」のかもしれません。

仕上げということを、なんのことはなく「やれてしまう」ことより、数倍面白い状況が生まれている、と思いました。

 

コンテクストが、下部構造じゃないほうが

こうしたやり方は、コンテクストを「乗り越える壁」や、「設計の与件」としてしか見ない立場では生まれ得ないかもしれません。

そのどちらも、設計の下部構造として、コンテクストを定義しているからです。

それだと、かなり息苦しい感じがします。

そうじゃなく、コンテクストまで操作してしまうやり方がいろいろあるのだなぁと、森さん設計の住宅を見学し、思いました。

そのほうが、きっと楽しい。

 

わび・さび、まで行くと、コンテクストの操作も息苦しい?

さて、話はぶっ飛びますが、千利休さんのような茶人プロデュースによる空間は、とてもストイック(高解像度)かつ独自の秩序(ずらし)を持ちます。

コンテクストいじりの極地といいますか。

 

しかし、あまりにもストイック。多くの人が、すこし、不自由を感じてしまうんじゃないでしょうか(もちろん、その不自由さこそ大切なのだ、ということなのでしょうけれど…)。

コンテクストの解像度・ずらしは、行きすぎると結局、抽象的な、息苦しい世界へ逆戻りしてしまうように想像します。(実際体験すると違うんでしょうか…)

 

では、解像度、ずらしをどの時点で止めるべきか。

  

コンテクストのラスタライズ

難しいことですが、その部分が各デザイナーの倫理による所であり、持ち味なのですよね、きっと。なので、このことは一旦、棚上げしてしまいましょう(汗)

 

コンテクストいじりを止めるのは、画像加工の際の「ラスタライズ」に相当するように思います。

www.weblio.jp

 

後戻りできない状態に固定されてしまう、ということで、似ているなぁ、と。(あんまり用語本来の使い方に即していないかもしれないです。ごめんなさい)

どの解像度で、コンテクストをラスタライズ(≒固着させる?)するか。

 

 その判断が「効いている」空間は、新鮮な驚きと、もともとのコンテクストの活用を両立できるのかもしれません。

そんなことに気付かされた、空間体験でした。

 

 

 

「コンテクストを読め」って言っていた先生、

こういうことを伝えたかったのかなぁ…。 うーん。